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一生涯5,000万円生活

2011-02.27 Sunドン・キホーテ読了

Time[23:29] Comment[0] Trackback[0]
 確かに、前編の最後は[ To be continue ]といった感じで終わっていた。しかし、いざ完成した後編は、それに先立って別の作家が勝手に書いたドン・キホーテ後編を、終始意識して書いている。そして、セルバンデスはそのことを隠そうともしていない。

 なにしろ作中で、前編における冒険が本になって世に出回っており、ドン・キホーテとサンチョはスペイン中に知らぬ人はないというくらいの有名人に(本人たちの知らないところで)なっている。さらに、偽書ドン・キホーテ後編も出版されていることが判明して、それに対して登場人物達があれこれ批判を加えている。

 小説の中で、当の小説(の前編)が実録本として出版されるというのは、何だかややこしいが面白い設定といえる。しかし、前編を書き終えたときに続編の構想が既にあったとしたら、出来上がったものはかなり違った話になってしまったことだろう。当初はどういう目論見だったのか、知りたいけれど、知らぬが花か。

 
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2011-02.23 Wedドン・キホーテ 後編

Time[23:06] Comment[0] Trackback[0]
 前半の最初を読んだときは、あまりに酷い設定で辟易したくらいであったが、物語も後半に入ると、騎士道かぶれの既知外爺さんだったドン・キホーテは、多芸多才で思慮分別に優れた人物で、話が遍歴の騎士に及ばなければ立派な人物である、という人物像になってきた。
 サンチョの方も、ドン・キホーテの与太話を信じ込んでいる愚鈍な田舎モノから、学はないけれど判断力、観察力、記憶力の優れた、なかなかに頭の良い男へと変貌している。

 セルバンデスも既知外が既知外沙汰をやってるだけの話を書くのはいやになったのだろうか。もっとも、前編後編の間には、十数年の間が空いているから、特に理由がなくても色々と変わってしまうのは自然かもしれない。

 まあ、最初のうち気に食わなくても、続けて読む値打ちはあるということだ。
  

2011-02.01 Tueドン・キホーテ

Time[23:31] Comment[0] Trackback[0]
 「千一夜物語」を読み終わって、次に「ドン・キホーテ」を読み始めた。誰もが知ってるタイトルだが、読んだことのある人はそう多くなさそうである。全6巻と、結構長い。

 まだ一巻の半分くらいだが、こんな話だとは思わなかった。ドン・キホーテといえば、風車に突撃すること愚かな騎士かぶれとして有名であるが、そんな生易しいものではない。徹頭徹尾、終始一貫、完全無欠の既知外なのである。
 冒頭に、気が違ってしまった理由もちゃんと書いてある。騎士道物語本が大好きで、あんまり朝から晩まで寝る間も惜しんで読んでいたところが、とうとう空想と現実の区別がつかなくなってしまった、ということだ。そして、現実に起こることを、本の中の出来事に当てはめて、その場面を再現しようとするのである。だから、出会う女性はみな貴婦人、4つ足に乗っていれば騎士、修道服を着た坊さんは妖術使いと、みなしてしまう。

 あまりのことにいたたまれない気持ちにすらなってくるが、ここまで戯画化して騎士道物語を書くとは、セルバンデスの時代に騎士とは一体どんな扱いを受けていたのやら。
  

2011-01.27 Thu千一夜物語

Time[02:27] Comment[0] Trackback[0]
 岩波書店刊行の「千一夜物語」全13巻を読み終わった。通勤時と昼休み(と仕事中)にしか開かなかったので、2ヶ月くらいかかった。

 船乗りシンドバッドやアラジンと魔法のランプ、アリババと40人の盗賊といったお馴染みのタイトルが出てくると、何となく嬉しくなるのと同時に、それぞれどんな話なのか、ちゃんとは知らないということに気付かされもした。

 13巻にわたるアラブ世界の逸話を読んでいると、当然イスラム教のイデオロギーが随所に出てくるのだが、私もイスラム教徒になろうかしらんというくらいに、良い教えだと思った。色々な儀式や習慣はともかくとして、その考え方がいい。
 良いことも悪いことも、「アッラーの記したもうた通りのことが起こるのだ」と得意になったり腐ったりせず、裕福な人は「富はアッラーからの授かったものであり、アッラーの富はアッラーの貧者に返さなければならない」といって、貧しい人への施しを進んで行う。というか、そもそも身分を問わず、自分の家を訪れたものは誰であっても客であり、これを迎え入れて飲み食いさせて世話をするのである。知人友人ならともかく、知らない人相手でもそうなのだから、大したものだ。おそらく、お互い様の精神なんだろう。

 そんな、宗教観が大いに表れている本だけに、キリスト教徒やユダヤ教徒に対する描写は辛辣だ。特にキリスト教徒。特別罵る場面でもないのに、普通に『豚』呼ばわり。キリスト教徒は、生まれた時に一度入浴したきり、その後は風呂に入らないとか、腐ったものを食べ、腐った小便を飲む汚らわしい呪われた連中ということらしい。
 生誕時の入浴ってのは、多分洗礼のことじゃないかと思う。中世ヨーロッパの衛生状態を考えれば、「風呂に入らない」という指摘は、汚らしさの点では間違っていないだろう。まだ香辛料のない時代であれば、そういうものを使っていた世界から見れば、肉なんて生臭くて食えたものじゃなかったのかもしれない。小便を飲むというのは、ビールのことに違いない。
 それに比べれば、ユダヤ人はまだましで、せいぜい邪悪でずる賢くてあくどい、という程度だ。千年以上昔から、ユダヤ人とアラブ人は仲が悪かったわけで、イスラエルの存在は不仲の基本的な原因ではないのだな。

 現代のイスラム教圏を見ると、アラビアンナイトの時代の良きアラビア人はどこへ行ってしまったんだと、考えざるを得ない。そりゃ、所詮はお話だから、話半分にしておかなければならないのは分かっている。しかし、少なくとも理想的にはこうあるべきだ、という内容のはずで、「そんなのイスラム教じゃない」ということはないだろう。
 やっぱり、時代が下ると人間の性質が悪くなるのかね。今って鉄の時代? 人間ってはるかな昔から、時の流れとともに世界は悪くなっていくと考えていたんだなぁ。だって、未来は明るい! って話は聞いたことないもんね。
  

2010-12.08 Wed二人の恋人アズィーズとアズィーザの物語

Time[20:26] Comment[0] Trackback[0]
 千一夜物語「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子シャールカーンとダウールマカーンとの物語」の作中作である。まだ読んでいる途中なのだが、このアズィーズ(♂)がろくでなしで語らずにはいられない。

 アズィーズとアズィーザは従兄妹である。アズィーザの両親は早くに亡くなったが、生前父親は、将来この二人を結婚させる約束をアズィーズの父親としていた。そして、二人は小さな頃から離されることなく、一緒に生活し、同じ布団で寝かされていた。うーん、いい感じだ。
 さて、アズィーズが年頃になると、いよいよ約束どおりに結婚することになる。しかし、婚礼の日のこと、アズィーズは街でとても美しい女性を見かけてこれに惚れ込んでしまい、式をすっぽかすのである。これだけでも大概だが、この後がさらに酷い。
 アズィーズが家に戻ると、アズィーザは泣いていた(当たり前だ)。しかし、アズィーズの帰宅をみとめると、怒ったりはせずに何をしていたのかを問う。そこでアズィーズは一部始終を話して恋煩いの状態になってしまうのだが、ここからアズィーザの健気なこと。意気消沈した従兄を、その女と懇意になれるようあれこれ相談に乗ったり知恵を貸したり、その献身はいっそ愚かしいほどである。そして、アズィーズが自分の手落ちで失敗して失意のうちに帰ってくると、優しく声をかけて労わり、食事を持ってきてくれたりするのだが、アズィーズは食欲がないと食器をはねのけてひっくり返したり、アズィーザを押しのけて怪我をさせたり、八つ当たりもいいところである。それでも、この従兄への愛に溢れる少女は決して怒ったりせず、彼の機嫌が直り、心が落ち着くように努めるのだ。アズィーズが女のところへ行っている間は、1日中悲しみに沈んで涙しているというのに!

 結局、アズィーズは女と仲良くなることに成功するが、なんと、おおアッラーおいては力も権勢もない! アズィーザはというと、従兄の心が自分の上にない悲しみに心を潰して、とうとう死んでしまうのだ。そして、死に望んで尚、従兄の平穏を祈り、死して後もこれを見守ることを誓うのである。アズィーズの方は、女のところへ通うのが楽しくて、従妹の死を少しも悼むことなく浮かれているのだから、もはや言うべき言葉もない。

 この後紆余曲折の末、自らの行いが因となって、アズィーズはチンコとタマを切られてしまうのだが、現代日本に生きる読者である私としては、アズィーザのことを思うと天罰覿面としか思えん。幼い頃から一緒に育った、従妹の許婚で、見目麗しく、どこまでも寛い心を持った少女の何が不満だというのだ。私もそんな従妹欲しい(妹の方がいいけど)。